私の唯一の友達、入梅(いりめ)さんはちょっと変わった人である。
 よく、テレビや新聞なんかで、「千年前のものとは思えないぐらい綺麗です」とか言ってるのを見たり聞いたりしたことは無いだろうか。どうやらあれは入梅さん(の一族)がいろいろしているおかげらしい。

 入梅さんの一族は平安時代とかそこらへんの時代から代々、「封印師」というお仕事をやっているらしい。
 らしい、というのは入梅さんがそのお仕事で学校を休んでるのは知ってるんだけど、実際に見たことは無いし、封印師だなんてよく分からないし、というわけだ。
 とりあえず、噂とかをつなげてみると、入梅さんたちはどうやら時を止めることが出来る一族で(まずここから色々おかしいと思うんだけど)封印、というのはその物体の時を止めることでいくら傷がつこうと元の状態に戻せる、みたいな感じらしい。私の頭じゃ全然わからないけど。
 一回入梅さんに訊いてみたら「スポンジ」と返された。全くわけがわからないよ。


 というわけでよく分からないお休みランキングで上位に位置するであろう、ゴールデンウィーク前の三連休である。私は町内で一番大きい家、入梅さんの家の前に立っていた。
 縁側とか中庭とかありそうな感じの(生憎北海道に立っているので瓦屋根ではないのだが)昔ながらの家。玄関が二重なのがちょっとだけ残念だけど、北の大地だししょうがない。
 そして、インターホンも押さずに、玄関の前に立って叫ぶ。
「いーりっめさーん、プリントだよー。入梅さんが大好きな大好きな、もう結婚してもいいぐらい大好きな宿題だよー」
 バン、と横にスライドするタイプのドアが勢いよく開く。
「だ、れ、が、宿題大好き、なんですか」
 入梅さんからあふれ出る殺気。うん、自分でやっといてなんだけど怖いなあそして可愛いなあ。
「だって入梅さんいつも宿題やってるし」
「学校に行けないからです仕方ありません。好きなわけでは」
「わかったからはやく宿題うつさせて」
「自分でやってください」
 そういいながらも入梅さんは宿題を私の手からとって、わたしを家の中に招き入れるような動作をする。
 おじゃまします、と言ってあがらせてもらった。


「大体夏奈ちゃんはそれだから……
 ぶつぶつといつものように入梅さんが呟いているけどスルー。
 途中、入梅さんのお母さんとすれ違う。「おじゃましています」と挨拶すると、少し気まずそうな顔をして「この前はごめんなさい」と言う。「仕事ですから」と返すと、視線をそらされた。
「って聞いてるんですか、夏奈ちゃん」
「え、聞いてるよ、今日の給食の話だよね?」
「うん、そういうところとか夏奈ちゃん大好きだよとか言うと思ったら大間違いですからね」
「言わないの?」
「言いません」
 襖を開け、入梅さんがテーブルの上に宿題を広げる。それから鉛筆をとって、少し考えると、空欄を次々と埋め始めた。
……で、どこが分からないんですか、教えてあげます」
 珍しく、教えてあげますだなんて言うから一瞬思考が止まる。
 それから急いで入梅さんの正面に腰をおろして、自分の宿題を広げた。
「考えたくないからうつさせてって言ってるのに」
「そんなこと言ってるから覚えないんです。テスト前に泣きついて来ても知りませんから」
「わかったから入梅さん右手よけてよ、問の三番の答え見えない」
「夏奈ちゃんからはほんと学ぶ気が感じられないですね、不思議でたまりません」
 なんだかんだいいながらも、入梅さんは自分が書きこんだプリントをこっちに向ける。
 私がうつしているのを、入梅さんはニヤニヤしながら見ていた。珍しいな、入梅さんがそんな顔するだなんて。
 しばらくの沈黙。
「そして夏奈ちゃん、すごく面白いこと言うんですけど」
「何」
「そのプリント、わざと間違えた問題が一枚につき四問必ずあります」
 ……え。……え?
「ちょっと入梅さん、そういうのはやく言ってくれないと困る」
 顔をあげてみると、入梅さんがものすごいいい笑顔をしていた。
 いやあもうさすが夏奈ちゃんはバカだなあこんなのにまんまと引っ掛かってくれるだなんて、というような顔をしている。
「頑張ってね夏奈ちゃん。計算するもの欲しかったら裏紙あげますから」
 そういう入梅さんはもうかつてないぐらい、 それはもうクリスマスプレゼントをもらった幼女のような笑顔であったと私は言っておこう。
「じゃあ私はお菓子とか持ってきますね」


 静かに部屋を出て、廊下へ。
 暖簾が下がっている部屋に入る。
 冷蔵庫からりんごジュースのペットボトルを取り出して、食器棚から二つコップを取り出す。
 半分より少し多いぐらい入れて、それから氷を一つ。
 棚のせんべいの袋から4枚取り出して、ついでにチョコレートも。
 お盆を棚からとって、並べていく。
 それから部屋に戻って、部屋のドアを開けようとして、ちょっと考えて、お盆を置いてからドアを開けた。
 夏奈ちゃんのことだから、怒っていきなり何か投げつけてくるかもしれない。
 私が予想していた以上に答え違う問題多いんだけどー、って。
 ゆっくり、ドアに手を当てて、ひいた。
「ちょっとひどいよ入梅さん全部違うだなんて外道だよっ、外道にも程があるよっ!」
 消しゴムが、何個か私のすぐ横を飛んでいった。
 よかった、お盆置いといて。
「全部、ということはうつした範囲全部やったんですね、偉いじゃないですか。これで夏奈ちゃんはまた少し賢くなりました」
 そんなんで騙される私じゃないよ、と夏奈ちゃんが言う。夏奈ちゃんの近くにはけしかすの山が出来ていた。まとめたら立派なねりけしが出来そうである。
「そんな、そんなひどい人だとは思っていなかったよ入梅さん……そうか、まだ私達友達になって一カ月たたないんだもんね、これから入梅さんの新しい一面を探していこう」
 それから、もう一度私を怒ってから謎の方向に話を変えて納得していた。夏奈ちゃんも夏奈ちゃんで謎の子である。
 そこで本来の目的というかやろうとしていたことを思い出して、お盆を部屋の中に入れた。
 邪魔にならないようなところに、コップ二つとお菓子を置く。
 それから、夏奈ちゃんのほうから私のプリントを引き寄せた。
 全部、書き直さないと。めんどくさいなあ、と思いながら、消しゴムに手を伸ばす。
 ちょっと、プリントの一部分が目についた。
 もっと詳しく言えば……名前の部分。
「夏奈ちゃんの苗字って、なんて読むんですか?」
 口に出してみると、夏奈ちゃんはいきなり顔をあげて、わたしの目を見て二、三秒黙ってから、
「な、ななななななにいってるのかなほら普通にこれ、なつい、だよ普通だよ?」
 今夏奈ちゃんの手がものすごい勢いで動いていた気がする。早すぎて見えなかったけど。
ほら、と見せてくるプリントには、「夏井 夏奈」と書いてある。
 ……確かに、普通だ。
 夏至、と書いてあったのはもしかしたら勘違いなのかもしれない、と適当に話を終わらせて、宿題に集中することにした。
 もし、夏奈ちゃんの苗字が「夏至」だったら……私と夏奈ちゃんは、友達になれないかもしれない。
 それだけは嫌だなあ……。それだけは嫌だ。


 カリカリという鉛筆の音と、チクタクという時計の音とが部屋の中に響く。
「夏奈ちゃん、あの」
 入梅さんが、プリントに二組三番入梅、と書いたところで手を止めて、聞いてくる。
「何」
「夏奈ちゃんは、その……
 社会科が得意な人ですか、と入梅さんがそれはもう目の前に十人の男がいたならばうちの九人が振り向くであろうようなそんなとても可愛い恥ずかしそうな顔で聞いてきた。きっと振り向かなかった人一人は女の子に興味が無い方である。
「その、歴史とかはまあ出来るんですけど、地理が、ですね、」
 そんな可愛い表情のまま、今度は可愛い手の動きも付けて入梅さんが話す。
「普通に一般常識程度なら……入梅さん頭良いから地理もできるのかと思ってたよ」
「知ってることがすごく限られる上、明治時代から情報が更新されていません」
 ということはえーと、明治時代。
 明治時代明治時代明治時代……
「廃藩置県、だっけ」
「それより前です。多分。讃岐とか、蝦夷とか、越前とか」
 なるほどなるほど。それは江戸時代だね。明治かもしれないけど江戸時代だね。多分。
 もう一度入梅さんのプリントに目を戻す。
 真ん中に日本地図が描いてあって、番号がふってあって、地図とかぶらないようなところに枠があって、そこに県名を書いていく、という問題。入梅さんのプリントは北海道のところしか書いていない。
 懐かしいなあ、小学校の時覚えさせられたっけ。
「正直に地図帳を見れば良いんじゃないかな」
 鞄から地図帳を取り出して、入梅さんの前に出す。
「地図帳に、まけた、気がしますよね、これ」
「そうかな」
 私はそう思わないけどな、と続ける。
「まあ、負けた負けてないは関係なくても私はクラスのみなさんには完全に負けているのは確実ですね」
「どうして?」
「私は理解できることしか知りませんから。それ以外のことは知りません。北海道より下に土地があるといわれても困ります。もしかしたら北海道がこの世のすべてかもしれません」

 入梅さんは、ずっとずっとひきこもりだったのだ。
 入梅の家に生まれたからと、ずっとずっと仕事をするために、学校にはほとんど行っていない。
 仕事を否定する人や、仕事を阻止する人に襲われないように、学校と仕事場と家以外のところには行っていない。
 移動中も、窓の外なんか見たことがない。
 入梅さんにとって、学校と仕事場だけが外の世界。
 でも、わたしと一緒なら?
 入梅さんを守る、わたしと一緒なら?
「入梅さん」
「何ですか」
「ちょっとお母さんに交渉してくるね」
 急いで立って、部屋を出る。
 いつものところにいるかな。
 いつも、入梅さんのお母さんがいる部屋の襖を開ける。
「すいません、ちょっとお願いがあるんですけどー」


「なあ夏至、お前、ゴールデンウィークに入梅と一緒にどっか出かけるのか?」
 次の日、学校に行くと冬至君に話しかけられた。
「うん、そうだけど」
 そう答えると、クラス中の視線がこっちに向かってくるのを感じた。
「な、なななななあんた、何バカなこと言ってんの、死ぬ気? 死ぬ気なのね? 死なせないわよ?」
 立夏ちゃんが気付いたら背後にいて、ぎゅうと抱きしめられた。
「いや、だから、別に……
「駄目だよ夏奈、夏奈の次がいないからってもう死んじゃおうだなんてそんなこと考えちゃ駄目だよ」
「安心しろ、夏至。お前が死んだら僕がちゃんと仕事を受け継いでやるから」
「ああ、万一襲われたら俺がサポートする」
 立夏ちゃんが言い、近くにいた半夏と冬至が続ける。
「私死ぬの前提? 入梅さん襲われるの前提なの?」
 当り前でしょ、と立夏ちゃんが言う。
 お前はほんと何も聞かされてなかったんだな、お前の母さんだって自分が死んだら次はお前だってわかってたはずなのにな、と半夏。

 ……そう、私達も、普通の人ではない。
 代々、入梅さんを命をかけて守っている。
 入梅さんは封印師というお仕事柄、命を狙われることが多い。特に、生まれてから子供が生まれるまでの期間。その間が入梅さんの全盛期なのである。
 封印させないため、自分のものに留めるため、表に出さずに封印するため、入梅の血を絶えさせるため。いろいろな理由で入梅さんは命を狙われる。
 平安時代から、ずっとずっと続いてきた入梅家だけど、そのためにどのぐらいの家が無くなってきたのか。
 一年に一つの家だとしても、今が二〇十二年、平安時代は七九四年。千年以上は優にあるし、千以上もの家が無くなってきたという計算。まあ、でも、いいんだけどね。
 私入梅さん大好きだし。皆もきっと入梅さん大好きだし。
 今のお仕事は私、「夏至(なつい)」。次に控えているのは「半夏(はんか)」。
 それからサポートとして、「冬至(ふゆい)」がついている。
 ずっと、ずっとの話である。
 もう、誰も自分の運命を怨みやしない。
 皆、入梅のために命を捧ぐと心に決めている。
 それが、狂いに狂った我が町(というかここら一帯であって市とかそういうレベルでは無い)の現状であった。
 そして、私の家はこの前、お母さんが死んで、私だけである。
 私が死んじゃったら、私の家は終わるのです。
 ちゃんちゃん。

「で、どこ行くのよアンタ。大きい街なんて行けないでしょ?」
「父さんのほうのおばーちゃんち。隣町なんだよ」
「隣ったら白糖か」
「うん、あそこなら田舎だから」
「そう。札幌に行くだなんて言い出したら監禁してでも止めようと思ったわ」
 立夏ちゃんが心配そうな顔をしつつも、場所だけは納得してくれた。
「ところで立夏ちゃん、お願いがあるんだけど」
 何、と機嫌を悪くしてしまったのか、冷たい声が返ってくる。
 そんな立夏ちゃんの体を、下から上に見ていって、言う。
「入梅さん、どう頑張っても私の服着れないと思うから服を貸してくれないかな」
 最終的に目線は胸元である。
 さすがに立夏ちゃんも何を言いたいのか気付いたようで、もっと冷たい目になった。
「どうしよう、何でかしら、今ね、夏奈にすごい殺意が湧いたの」
「まあ、入梅さん、引きこもりで昔から続く一族なのに、大きいしね」
 横から、半夏が余計なことを言った。
 そのあと、後ろから手が伸びてきて、何が起こったのか見えなくなったけど、立夏ちゃんの殺気だけはよく伝わってきた。
「夏奈」
「何、立夏ちゃん」
「服、貸すわ。背的な意味で大丈夫だと思うから」
 背的な意味で、と主張してだけど、どうやら納得してくれたようだった。
 でも、それでも殺気は消えていなくって、それが何だったのか、未だにわからない。

 

 

どうも、半夏家長女、半夏常盤である。
 今日は我が最愛の弟、将がいつもならご飯ができたらすぐに出てきて食べるくせに、夜ごはんが出てきて十秒たっても出てこないので、将の部屋の前に立っている。
「将? アンタご飯は?」
 部屋の中に呼び掛ける。
 何も声が返ってこない。いつもなら「五月蠅いバカ姉貴」だの、「五月蠅い黙れ死ね」だの「五月蠅い僕の目の前から去れ」だの愛情のこもった返事が来るというのに。
「開けるよー?」
 視界に入ったのは、驚きの光景だった。
 帰ってきてすぐに鞄を放り投げてそのままなのか、机の上に鞄が乗っかっていて、そこに乗っていたのであろう物が床に散らばっている。
 まだ窓をあけるような気温でもないのに、窓は全開で、さっきのと風で床はプリントやら文房具やら制服でぐちゃぐちゃだ。
 カーテンは一応閉めてあったのだろうが、風で飛んでカーテンとしての役割を果たしていない。
……将?」
 呼び掛けても返事はない。
 よく見てみれば、机の下に毛布の塊がいた。
「将、ご飯」
 もう一度、呼び掛ける。返事はない。
 しばらくの静寂。
 風が強い。この間も、プリントが舞い、教科書が雪崩を起こす。
「冬至が」
 幻聴かと思ったら、どうも違うようだった。将が続ける。
「あいつ、今年は一緒に遊ぶって言ってたのに裏切りやがった」
「約束してたの?」
「ずっとあいつ仕事仕事仕事仕事ってずっと休みなかったんだぜ、でもゴールデンウィークは何もなかったから遊ぼうって言ってたのに」
「あ、そういや夏至さんと入梅さんで出かけるらしいね」
「夏至が余計なことしなければ」
 もぞもぞ、と毛布が動く。
「そうだ」
 ぽつり、と呟いて、毛布がいきなり立ち上がった。途中で机に頭をぶつけるというおまけつきである。
「姉ちゃん」
 我が弟が、頭を押さえつつ格好いい動作で毛布を捨てる。
「ちょっくら家出してくる」
 弟は今までにないかっこいい声とかっこいい顔でそう言い、窓からとびおりた。
 なんかもうかっこいいという印象しか残らなくて、動作が固まる。なんかかっこよかったってことしか覚えてない。
 その日の弟の分の夕食は私が食べた。


「半夏です。少々お話したいことがありまして」
 僕が向かったのは徒歩三分ほどの一般的な家だった。表札には「中島」と俺らに比べれば普通な苗字。ドアを開けてくれた人も、普通の人だった。
「このゴールデンウイークで入梅は三丁目の鎌田さん経由で白糖町の港さんの家に仕事をしに行くらしいです」
 そういうと、優しそうだったこの家の人の顔が一気に険しくなった。
「半夏、か? 本当に半夏か?」
「はい。『夏至』が死んだら次期『半夏』となる長男の将です」
「あがりなさい」
 あっさりと、中島さんは家の中へと招き入れてくれた。


「わかりましたか? では、あなたは明日、何をすればいいのですか?」
「なついのこうどうをずっとおいかけて、しゃどうにでてきたときをねらって、ひきころします」
「ああ、そうだ。じゃあ何で夏至を殺すんだ?」
「いりめさまとなついはとてもなかがよろしいので、なついをころせばいりめさまはおそらくせいしんがほうかいします。それをねらいます。なついをころせば、みなとのたからがふういんされることはありません」
「ああ、いい子だな、よくわかってるじゃないか」
 そう耳元で呟いて、僕は彼女の額に唇を落とす。
 延々と、このやり取りを繰り返して十二時間。彼女の目は虚ろで、ほおっておいてもぶつぶつと「なついをころさねば」とつぶやいてる。
「中島さん、もう休もう。明日は忙しいんだから」
「そうですね、半夏様。先に休ませていただきます」
 そう言い終わるとばたりと倒れる。
「あと少しで、冬至は僕のもんになるんだよな……入梅もだけど」
 すごく、楽しみだ。

「いーりっめさーん! 迎えに来たよー」
 というわけで当日である。
 む、出ない。玄関の引き戸をガタガタ鳴らすと、やっと入梅さんが出てきた。
「五月蠅いです夏奈ちゃん近所迷惑ですもうちょっと静かにしてください私の部屋からここまでどのぐらい距離あると思ってるんですかこのぐらいかかります」
 そう息継ぎを一切せずに言った入梅さんはあのあと立夏ちゃんに貸してもらった服を着ている。
 入梅さんは基本的に和服かジャージか制服かなので私服となると新鮮だ。
 私には無いいろいろなものが備わっていて少々イラッとしたけれども、一瞬でやっべ可愛いで埋め尽くされる。
「じゃあ、いこっか」
 ぐっと入梅さんの手を掴み、駅に向かって歩き出した。


 歩いている最中の私と入梅さんの会話を書こうとしても、書ききれないだろう。
 これは何、これは何と小さい子のように訊いてくるのだ。
 今まで引きこもっていた入梅さんにすれば全てが新しい発見なのだろう。あれは何、と聞いてくるときの入梅さんの顔は、今までで一番輝いていた。


「ここがおばーちゃんちだよ、入梅さん」
「へえ……なるほど、たしかにこのスリガラスがおばあちゃんの家っぽいです」
「でしょー? ほら入ろうよ入梅さん」
 入梅さんの腕を引っ張って家の中に入れる。
「おばーちゃーん、来たよー」
 相変わらず元気な年齢と行動が合わないことに定評のあるおばあちゃんは私が来るなり、階段を駆け下りてきた。
「えっとね、こっちが入梅さん」
「入梅です、今日から三日間、よろしくお願いします」
「いりめちゃんねえ。ようこそいらっしゃい。名前はなんていうの?」
「蝦夷です。蝦夷とかいて「えみし」と読みます」
 おばあちゃんが一瞬固まる。
 一瞬どころじゃない。二、三秒。
「入梅さんって……
「はい、なんですか?」
 入梅さんが笑顔で返す。
「あの……入梅さんちの」
「はい」
「平安から続くっていう……
「はい」
 笑顔のまま固まる入梅さん。
 若干青い顔のまま固まるおばあちゃん。
「おばーちゃん?」
「すごい子連れてるんじゃない、夏奈!」
「ってかおばーちゃん、私言ったよ?」
「入梅じゃなくて他のそういう名字の子かと思うじゃないの、入梅なんて珍しいんだから」
 ほら、そんなこと言うから入梅さんが困ってるよ! ものすごく困ってるよ?
「でもまあ、よくきたねえ。汽車とか初めてだったでしょう。若いうちはいろんなことを体験しないと」
「そう、ですね」 
 入梅さんは笑って返した。


 それからは楽しかっただなんてものじゃない。店に入るのなんて初めてな入梅さんを近所の商店に連れて行ったり(これがデフォルトだと思われてないかな、田舎だから商品少なめなんだけど)、河原に連れて行ったり(これは楽しそうだった。入梅さんは虫とかカタツムリとかナメクジとか大丈夫なタイプな女子だそうだ)、田舎ゆえか、遊具がまだそこそこ残っている公園で遊んだり(田舎ゆえか、子供があまりいなかった。久しぶりにブランコとかして楽しかった)、数少ない、唯一といってもいいかもしれない特産物の鈴を色違いで買ったり(こういうの初めてです、と入梅さんが言っていた。封印かけそうになっていたから流石に止めたけど)。入梅さんはいつも見せないような笑顔だったし、ここまで来たかいがあったというものだ。
 でも、人生楽あれば苦あり。
 楽しいことがあれば、必ずその分の苦しみや悲しみが後から襲ってくる。


 それは、突然のことでした。
 めったに、車なんて来ない田舎道でした。
故に、油断していたのです。
 世間知らずの入梅さんのことです。
 危険なことはすべて遠ざけてきた入梅さんです。何も考えていなかったのでしょう。
 車道に出ることがどれだけ怖いものなのか、 そんなこと、知っているわけないのです。知らなくても生きられるのですから。
 と、いうわけで。
 入梅さんは前後左右をまったく確認することなく、落ちた鈴を拾おうと、車道に出たのです。それと同時のことでした。
 地平線に車が現れたのです。
 繰り返します。ここは田舎です。一車線です。避けられるわけないのです。最低限の体力しかない入梅さんのことですから。
 ではどうしましょう。
 簡単です。私は『夏至』なのですから。
 入梅さんを守る一族なのですから。
 任務を全うするまでです。
 もともと、そういう約束でここにいるのです。
 私は、入梅さんを突き飛ばします。入梅さんがものすごく驚いています。当たり前ですね、自分から車に飛び込んでくるバカが目の前にいるのですから。
 車とぶつかります。あまり痛くありません。なるほど、そのための一族なのですから、当たり前なのかもしれません。
「夏奈ちゃんっ」
 地面に横たわる私のもとに、入梅さんが近づいてきます。
 視界の隅に、冬至の姿がうつります何と言えばいいのか、世界最大級のバカを見ているような目をしていました。実際「バカか、お前は」と口が動いたように見えました。
「夏奈ちゃん、夏奈ちゃんっ」
 あらまあ入梅さんったら、泣いちゃって。駄目ですよ、泣いちゃ。入梅さんは可愛いのですから。
「冬至の言うこと、ちゃんと聞くんだよ」
 薄れゆく意識の中、もう一度冬至を見ると、力強くうなずいていました。


結局、成功した。
 入梅が何かを落として車道に出る。そこに車を運んだら、夏至が出てきてくれた。
 まったく、予想通り過ぎて気味が悪い。
 夏至は、僕がお前を殺したことに気付いたのだろうか。
 気付いていても、気付いていなくても、まあ良いかと思った。入梅を殺すことだけは回避できた。
 入梅を殺しちゃ元も子もない。仕事が無くなる。夏至を殺した意味がない。
「よかったですね、中島さん。これで港さんに入梅の力が働くことはなくなりました」
 ぽろぽろと、彼女の目から涙があふれてくる。
「ありがとうございます……ありがとうございます……
 そう、ひたすら繰り返す。
「中島さん。さすがに田舎とはいえ、さすがに時間がたつと警察が来ると思います。逃げましょう。一緒に」
 彼女の手をとり、トラックから降りる。それから彼女を抱えると近くの林に駆け込んだ。一応夏至は意識してなかったみたいだけどこれでも入梅を守る一族である。運動神経は平均以上であろう。林なんてことは気にせず、平地みたいに走る。勘を頼りに地元へ走る。
「半夏様」
「なんですか、中島さん」
「ありがとうございました」
 彼女は僕に抱きあげられたまま、腕を俺の首に絡めると、僕の頬に唇を落とす。
 もう一度ありがとうございました、を呟くと、彼女は疲れたのか、意識を失った。
……これで、きっと冬至は僕と遊んでくれるようになるんだろうなあ……
 そう呟いてからはっと意識を戻す。
「やっべ、帰らねえと」
 意識を失って少し重くなった彼女を抱えなおし、街へと走った。

 


「初めまして、ではないね。同じクラスだし。夏至の次、半夏将です」

町に戻ってから、入梅さんに話しかけると、あまり喜ばしい顔はされなかった。

「……やっぱり、夏奈ちゃんって」

「夏至、だね。夏井じゃなく。」

です、よね……と入梅さんの顔がどんどん下がってゆく。

「あのとき、私が気付いていれば、夏奈ちゃんが夏至だって気付いていれば、」

「夏奈が死ぬことはなかった?」

顔は下げたまま、入梅さんがぴく、と反応する。

「あたりまえじゃ、ないですか」

「でもさあ、夏奈からしたらそれが仕事なんだよ。夏奈がいなかったら、入梅さん外に出たりとかしなかったでしょ?」

入梅さんの口元に手をやって、無理矢理笑わせて。

「入梅さんを守ります、半夏です。よろしくお願いします」

入梅さんは俺の手をゆっくりと避けて。

「『封印師』、入梅蝦夷です。よろしくお願いします」

そのあと自分で。ゆっくりと微笑んだ。