時の流れというのは恐ろしいもので。

 私が加倉井咲乃と出会ってから、三年の年月が流れていた。

 

 優等生を絵に描いたような加倉井さんと適当に生きている人間代表の自分が同じ高校で同じクラスになるだなんて当時は全く考えていなかった。

 適当に生きてるけど成績は良いタイプ、とかそんなではなくて、単に加倉井さんが家庭の事情で高校のレベルを落とさざるを得なかっただけだ。

 レベルの高い学校は、どこも公共交通機関を乗り継がないと通えない。その交通費を払う余裕がなくなったのだという。

 多分、大学に通う事も出来ないのだろう、と加倉井さんは言っていた。

 大学に通えないならレベルの高い高校に行く必要はない、就職するならこっちの学校の方が向いている、と。

 私は進学するつもりなんだけどなあ、と思ったけれども優等生の常識によって形成されている加倉井さんである。反論するのは面倒くさい。

 

 三年たっても加倉井さんは変わらない。

 あいっかわらず優等生だ。こんな底辺校と自称進学校の中間みたいな微妙なレベルの高校に通っている人間に使うべき言葉ではないんだろうけど、加倉井さんは相変わらず優等生だ。

 無遅刻無欠席はまあ当たり前のこととして、宿題を忘れないし(普通のことだけど)、間違えないし、わからないことがあったら先生に訊きに行くし(本来当たり前のことだけど)、煩くしないし(する相手がいないからだと思うけど)、服装はかっちりだし(おかげで少々どころじゃなく浮いている)、エトセトラエトセトラ。

 こんな学校に来る人間にまともな人はほとんどいないので見事に加倉井さんは浮いていた。おかげで、私は加倉井さんを一人占めすることに成功している。

 

「べつに平均台に飛び乗れなくても死にやしないと思うんだけどそこらへんどう思うよ加倉井さん」

「先生がやれって言ったんだからやってください怜香ちゃん」

 そう返す加倉井さんは先週の体育で着地に失敗して、無事平均台飛び乗りを回避していたのだった。

「……やっぱり失敗しか道は無いかー」

「あの高さから落ちたら無事でいられるかわからないですよ、さすがに」

 加倉井さんが怪我をしたのは、まだ低い平均台で練習していたころだった。今回も一応低い平均台が用意されているものの、やる気がない人たちのたまり場と化している。あいているのは、今回のメインの平均台だけだ。

 ……高さが自分の胸元ぐらいまでの。

 ばん、と音がした方に目をやると、運動神経に恵まれた方々が平均台に軽々と飛び乗っていた。そのままスキップスキップ、ジャンプして方向転換、でんぐり返し。

「……絶対おかしいって」

 いくら踏切り板(ロイター板が正式名称なんだっけ?)があるとはいえ、自分の胸元の高さまでジャンプして片足の幅しかないところに片足で着地って。

 しかも一応暦上は秋とはいえ、北の大地にあるこの高校の体育館の気温は内地の冬に相当するであろう寒さだ。安全を考慮して裸足でいるため、床の冷たさがダイレクトに足裏を冷やし、足の動きを制限している。

「これで失敗したら学校は私の人生の責任とってくれんだべか」

「きゃー怜香ちゃんったらさぼっているわー」

「何を急に」

「練習しなくてテスト当日に苦労するのは怜香ちゃんだから私知らないですけど」

「そーなんだよねえ」

「練習しないと怪我も出来ないですし」

「だよねえ」

 仕方ない、と誰も並んでいないほうの平均台に向かう。

 怖い。これなら絶対跳び箱八段飛べって言われる方がマシだ。プールに飛び込めって言われる方がマシだ。

「……はあ」

 と、と、と、と走り出す。踏切り板を、右足で踏んで、左足を。

 伝わったのは面ではなく角の感覚だった。

 足に当たったものを思いっきり蹴り、マットに飛び込む。

「……痛い」

 角に当たった左足もだけど、右足も踏切り板を蹴るときに変に蹴らさったのか痛い。というか冷たい床を蹴った両足が痛い。

「痛い」

 

 

 

 

 数馬田怜香は変わらない。

 私が怜香ちゃんを見た、十一年前からずっと、怜香ちゃんは変わらない。きっと。

 怜香ちゃんには友達がいない。私もあまりひとのことを言える身分ではないけれど、私は自分の性格のせいなのだろうな、と思う。でも怜香ちゃんに友達がいない理由はよくわからない。

 私には、怜香ちゃんはあのよくわからない人たちの同類に見えるのだ。

 なのに、何故。

 その疑問は、怜香ちゃんを知って八年たってから解決した。

 怜香ちゃんの生き方は適当だ。

 適当に、生きたいように生きている。そしてその適当さは、あのよくわからない人たちとは違う。

 常に、ずっと、自分が傷つくことのないように。ずっと、幸せでいられるように。

 一人ぼっちを苦痛と感じないのが幸いしたのか、それゆえか。

 数馬田怜香は独りぼっちだ。

 数馬田怜香は、ひとを信じない。

 

「プリント、回収」

「え」

 昼休み、一人でお弁当をつつく怜香ちゃんに話しかける。

 怜香ちゃんは箸を置いて、手を中途半端な位置に固定する。何かを思い出そうとしているときによくやるポーズだ。

「……何の」

「数Ⅱ。積分の公式のやつ。六分の一の」

 集めたプリントを見せると、う、と視線を床に落とした。

「あー……」

「記憶にございません、と」

「たぶん無期限レンタル中、かなあ……」

 プリントを見せてくれと言われた時のことを思い出しているのか、顔がにやけている。

 怜香ちゃんのクラスでの立場は「べんりなひと」だ。

 物を貸すときに文句を言わない。返すのが遅れても文句を言わない。返さなくても文句を言わない。何度繰り返しても文句を言わない。

 私に比べたら正確さは落ちるけれど、たぶんあのひとたちからしたら、私は話しかけずらいのだろう。そこそこ話が通じて、文句を言わない。怜香ちゃんはぴったりなのだ。

 怜香ちゃんからしたら、何も信じてないから物が返ってこなくても何も思わないし、自分が価値ある人間だと思っていないから、話しかけられる時点でとんでもなく嬉しいのだろうけど。

「……一枚、白いのあるけど。写す? 私の」

「あれ、写していんだ? ずるじゃん」

「怜香ちゃんの解答が出回っているんでしょう? 同じ間違え方したらばれちゃいますし、そっちの方がまずいでしょう。一から解くのも時間かかりますし」

 プリントを貸せた、というのはちゃんと全問解いていた、ということなのだろうし。

 まっさらではないのだ。

「どうしたの怜香ちゃん珍しく優しいというか対応が柔軟というか」

「未提出がいると怒られるの私なんですよ」

「なるほど。確かにそれは嫌だ」

 夏休み前まで、数Ⅱの先生に雑用を押し付けられていた怜香ちゃんだ。先生の面倒くささはわかるだろう。

 自分の机に戻って予備の一枚を取り出し、持っている束から自分のを抜きだす。

「提出、放課後までなので。急がないです」

「うん、ありがと」

 

 

 

 どう頑張っても時の流れには逆らえないのである。

「加倉井さんずるい……」

「怜香ちゃんも転んで怪我しとけばよかったじゃないですか」

「もしかしてわざと」

「まさか」

 難無くクリアしていくクラスメイト達。なんなんだろう、自分の胸ぐらいの高さがある平均台に飛び乗るというのは出来て当然のことなんだろうか。

「なんで渡辺に生まれなかったんだろう……」

「阿部じゃなかったことを感謝すればいいんじゃないですか」

 そんなこんなやっているうちに自分の番はやってきて。

 自分の左足がとらえたのは、面でも角でもなく。

 

 

 

「大丈夫、ですか」

 その日の授業をすべて終えて、怜香ちゃんの家に向かう。

「うん、ちょっといろいろぶっけただけだし、病院行かなくて大丈夫な程度だし」

「行ったほうがいいとは思いますけど」

 私がされたより大袈裟に包帯が巻かれている。爪だって変色してるし、肌もいかにも痛そうな色してるし。

「……爪、たぶんそのうちぺろっといく色ですよ」

 それは嫌だなあ、と笑う怜香ちゃん。

 笑う、というよりはにやにやしている怜香ちゃん。

「えへへ、加倉井さんが心配してくれる」

嬉しそうな顔で。

「加倉井さんはゆーとーせーだから、怪我したクラスメイトのこと、ほっとけないもんね」

 怜香ちゃんは、私がいなくなったら独りぼっちになる。

 怜香ちゃんは、私がそのことに気付いているのを知っている。

「私は嬉しいよ」

 

 いままでで一番の笑顔で、怜香ちゃんは私に抱きついた。