うちのクラスの湧別君といったらひどい様である。
なんというか、湧別君オーラが出ていない。
その湧別君オーラが何なのかと言われると何も言えないのだけれども、とにかく湧別君オーラが出ていないのである。
「神先輩いなくなっちゃったしなあ……」
と呟く。うん、そう、あくまで呟き。もしかしたら声なんて出てなかったのかもしれない。
でもそのことで何があったのか、気付くと両手をまとめて握られていた。
「美原っ」
誰かと思うと。
「大好きっ!」
何日かぶりに湧別君オーラ全開の湧別君であった。
静まり返る教室、集まる視線。何日かぶりにかがやいている湧別君の目。廊下にいた人の視線も。
美原子咲、人生で一番注目を浴びております。直接。
間接ならまだあったのですが。
ふむ、なるほど。最近のあの湧別君オーラのなさはこれが原因だったのですね。なるほどなるほど……じゃないですよ。
とりあえず落ち着きましょう。情報を整理です。
なるほど。
とりあえず最初に思いついたのは逃げることであった。
昼休みは残り十五分。
こういうのの定番は屋上なのだろうが、我が校にそんなものは存在しない。昼休みのため、生徒は全校に散らばっている。人気のない場所。
人気のない場所?
男子更衣室。
ジャージ登校という制度があるため、体育などで使われることはなく、部活の際の着替えもたいていの生徒は廊下で行うため、存在意義のよくわからない教室(?)である。
でも今回ばかりは役に立った。予想通り、付近に人はいなく、使っている人もいない。
なぜ女子更衣室ではないのかと言うと女子更衣室はなぜか鍵がかかっていたからなのである。
ドアを開け、湧別君をやや強引につっこみ、後ろ手でドアを閉める。
「……何をしてくれるのかなあ? 湧別君」
「いや、神先輩の名前を八日ぶりにきいてつい……」
「ついじゃないよついじゃ! ついで教室で告白もどきされても困るよ!」
「告白した覚えなどないっ!」
「セリフ選べよ湧別っ」
「まあまあ落ちつけよ、これでも食え。二時間目に気付いて処分に困っていたところなんだ」
「駄目なんだ湧別君学校にお菓子持ってきちゃっ! とりあえずもらっとくけどっ」
湧別君から飴を受け取る。
勢い任せの犯行だった、と後に犯人は語る。
それゆえに何をしたいのか何も考えていなかったと。
「とりあえず、どうやったら誤解を招かず無事に教室に戻れるかだね」
「お前が教室から逃げ出したりしなけりゃめんどくさくはならなかったと思うぞ?」
「そんなの知らないよ」
「普通にさ、戻ればいいんじゃね? 何事もなかったみたいにさ」
「いや、それを深読みしてくるのが昨今の女子中学生だって私聞いたことがあるよ」
「お前も昨今の女子中学生だろ」
「いや、私みたいのじゃなくてさあ、こう、スカート短くしてリボン緩めて、ってかリボンどころかいろいろ緩くね? 系の!」
「……しゃーねえなあ」
あれから三時間、放課後。
湧別君が話し合いの場に指定したのは美術準備室であった。
誰も人がいないからな、と湧別君は言った。今日は部活がないらしい。
「昨日の部活で明日提出の課題を忘れてきたことに気がついたので鍵を貸してください。準備室に忘れたのは確かなんですけどどこに忘れてきたのかはわからないので返すのは遅くなるかもしれないのですが」といった感じで鍵を借りた。
「初めて入ったんだけど、ここ」
「まだ美術三、四回しか受けてないだろ、当たり前だ」
大量の筆、鉛筆、鋏、少し変わった形のカッターのようなもの(デザインナイフと言うらしい)、いろいろな色の画用紙など、さすが準備室といったものがたくさん並んでいるというか詰め込まれている。
個人名が入っているものはおそらく美術部員のものなのだろう。
たくさんの色が混ざった、少し不思議な空間だ。
「神先輩の話だよな」
そう湧別君は切り出した。
先輩との出会い。どんな人だったのか。
そして、先輩との別れ。
「最近、神隠しが流行ってるみたいなんだよね」
その話を聞いて、私の第一声がこれだった。
「神隠し?」
そう繰り返し、湧別君は呆れた顔をして先生のものだと思われるイスに座る。
「うん、神隠し」
私も繰り返して、窓辺のシンクの横によしかかった。
「って、あの子供が急に消えて、二、三日後にケロって帰ってくるっていうあの……」
「一般的にはね。今のところは帰ってきた人はいないみたいだよ、最近のは」
「神先輩がそれだってのか?」
「わからないけど」
共通点があるんだ、と私は続けた。
第一に、たいていの人が消えたことに気付かない。本当に親しかった人がたまに気付くぐらい。四十人クラスが、三十九人クラスになったとしても気付かない。最初からいなかったみたいな扱いをされる。
第二に、異常。たいていはそれ故に友達がいない。
それって、と湧別君が口を開く。
「先輩と一緒じゃねえか」
バカにしているような顔は消え、真面目な顔だ。
「……神先輩が廃部寸前まで持って行ったんだっけ」
「ああ、うますぎたんだ、先輩は。うちの部活はもともとオタクのたまり場で、まともに絵を描く人は少なかったし、いたとしてもそこまでうまくなかったらしい。先輩はそんなの気にしていなかっただろうけど、他の部員は気にしただろうな。作品を作っているときの先輩は正直、おかしかったから」
「……先輩大好きな湧別君が言うんだから、間違いないんだろうね、それは」
「先輩が消えた途端に美術部は元に戻った」
「ね? 似てるでしょ?」
「お前は何を言いたい?」
「何を言いたかったんだろうね?」
「きっと先輩はもう帰ってこない」
「それは神先輩も覚悟の上だったんだろうね」
しばらく湧別君は黙ると、何か決心したような顔をして、立ちあがった。
「カーテン閉めろ、美原」
何を考えているのか、湧別君は美術室のほうに移動し(よく考えたらなぜ美術室ではなく準備室のカギを借りたのだろう?)、美術の先生が心をこめて綺麗にした黒板に、チョークを走らせ始めた。
流石美術部員というかなんというか。湧別君は一般人以上の画力をお持ちでいらっしゃるらしい。なんかクラスメイトが昼休みに黒板にしている落書きとは比べ物にならないような絵が左端から右端へ描かれていく。
白一色で描かれたのは森だった。
さまざまな種類の植物が生い茂り、木の陰にいるのはウサギだろうか。チョークで書かれたとは思えないほどリアルに描かれている。さっき一般人以上の画力といったことを訂正しよう。黒板アートコンテストなんかに応募したら結構いい賞をとれそうである。湧別君すごい。
右端までたどり着き、チョークを置くと、湧別君は真ん中に立った。
そしてゆっくりと右手を上げ、パチン、と指を鳴らす。
…………。何も起こらない。
何も起こらない。
だよなー、と半分笑いながら湧別君は呟く。
「ありがとうな、美原」
そして、黒板消し(長いやつ)を手にとって、両手に装備する。謎の構えをとって、「帰ろうぜ、美原」と言う。
いつも通りの湧別君である。
「クラスのみんなの誤解が解けてないの、忘れてないよね」
湧別君は黒板消しで右は字のほうを消すと、筆記体でサインを入れると。
「人のうわさも七十五日ってな。ま、なんとかなるさ」
湧別君が最後のひと筆を書き、チョークを置くと、ポケットから鍵を取り出す。
なんとかなるさ、ともう一度呟いて、湧別君は荷物を持った。
「湧別君は、神先輩のこと好き?」
私はそう湧別君に問う。
湧別君は一瞬動きを止めると、歩きながら答えた。
「あたりまえだろ、ライクベリーマッチってやつだ」
「そうか、それはよかった」
角のあたりで湧別君は足を止めると、きゅっと音を立て、振り向く。
「お前もな!」
ああ、これだから湧別君は!