あの先輩と出会ったのは、四月の半ば……新入生歓迎期間のときだった。

 

 

 母さんに部活に入りなさいよ、と言われていた。

 特にすることもない。暇つぶしにはなるはず。でも部活で土日まで潰す気は無い。

 あくまで放課後を潰せればいい。

 帰りの会で配布された、部活動の活動場所と地図が載ったプリント片手に、一階から文化系の部活中心にまわっていく。

 茶道部。楽そうだけど女子の部活だ。

 文芸部。自分から文章を書くやつの精神が分からん。

 図書部。自分から本を読もうとするやつの精神が分からん。

 写真部。なんか先輩の言っていることが理解できなかった。

 書道部。俺とは無縁すぎる。

 華道部。茶道と同じ。

 囲碁部。囲碁知らない。

 将棋部。将棋知らない。

 吹奏楽部。青春したいわけじゃない。

 パソコン部。なんかキモくて太っててメガネかけた奴の集まりだった。

 文化系は……あとは美術部ぐらいか。

 まあ、昔から絵は得意というわけでも苦手というわけでもなく、普通に描けてたしいいかもしれない。

 美術部なんて文化系の中じゃ一番自由そうじゃないか。

 三階の一番奥の教室へ。

 もう授業があったクラスからはものすごく不評な(場所が分かりにくい。備品が汚い。暗い。とのこと)美術室の戸の前に立つ。窓から見える範囲には誰もいないし、電気もついていない。

 もしかしたら部活動勧誘期間とか関係なく、もう帰ってしまっているのだろうか。

 なんか時間がもったいないし、今日大量に出た宿題を片付けてしまおう。

 そう思って踵を返すと、どさっと、何かが落ちるような音と、わっ、という声が聞こえてきた。

 人なんて、居たのか。

 帰ろうとしていた足を美術室のほうに戻し、ドアを開け、部屋の中を見る。

 「大丈夫、ですか」

 どこにいるのかと見渡す。どこにもいないな、と視線を戻したあたりで見つけた。

 教室の隅っこのほう、机を六つつなげた上に、大きな絵を描くやつが置いてあって、その机の横に女の子が倒れている。筆と絵の具が入った器が机の上にあるあたり、机の上から落ちた……のだろうか。

 そうか。机から落ちたのか。

 そうか。……そうかじゃねえ。

 近づいて、声をかける。

 うぅ、と声を上げた。

 

 

 

 

 

「ごめんね、なんか今日は太陽も風もいい感じで、春眠暁を何とやらってやつだね」

 二年三組三十八番神美咲です、と彼女は言った。

 わが校の(といってもつい最近入学した一年生が言っていいことなのかは分からないが)女子に大変不評な制服(なんかダサい。幼稚園児みたい。リボン自分で結ぶとか意味不)を今まで校内で見かけたどの女子よりも可愛く着こなしている。断じて見た目が幼いだとか、背が小さいだとかそういうわけではない。

「美術部員さん、ですか」

「うん、部長だね」

「美術部員を極めると絵を描きながら寝られるようになったりするんですか」

 バッと彼女の顔が赤くなる。

「か、勘違いしないでよ、今日は最初から寝に来たんだってば」

 どうやら幼いのは見た目だけじゃなくて中身も同じようで、頬をぷくうと膨らませている。

 最初から寝に来たというのはそれはそれで問題だと思うのだけれども、まあとりあえず彼女は絵を描きながら寝ていたという事実を忘れてほしいらしい。

「まあでも、やばいことにかわりはないんだよね、先生に見つかったら廃部になっちゃう」

 彼女は、近くから自分のカバンを取り寄せ、ファイルの中から一枚の紙と、それからボールペンと、それから近くから朱色の絵の具を出してくる。

 だからね、と彼女は呟いて、

「お願いなんだけど、ここにね、名前書いてね、ここほんとは保護者にハンコもらうところなんだけど、かわりに指でいいからハンコおしてくれないかな」

 俺の手に無理矢理ボールペンを握らせてきた。

 いや、ほんとに予想外の出来事である。

 誰が入部しようと思っていた部活の教室で人に話しかけた結果、本人にとって都合の悪いことがあり、口封じとして入部させられると思っただろうか。

 誰も思うまい。

「先輩」

「何かな、後輩君」

「こんなことしなくてもこんな所来る変人なんて美術部に用あるやつぐらいだと思いませんか」

 一拍、二拍おいて、やっと意味に気付いたのか、彼女がものすごく嬉しそうな顔をする。

「指じゃなくてちゃんと親にハンコもらいますから。明日先生に提出すればいいですよね」

「ほんとに? ほんとにほんとにほんとに?」

「嘘ついて何になるんですか」

 ありがとう、と彼女は言った。

 クラスの女子が掃除当番を押し付けたりだとか、無理矢理やらせるときみたいな作ったような笑顔ではなく、そんなのものとは比べならないような、綺麗な、可愛い笑顔であった。

「後輩君、名前は?」

「湧別です」

「ゆう、べつ? えと、北海道の地名の……水が湧くに別れるの……」

「それで合ってます」

 それじゃあ失礼します、と言うと、じゃあまた明日、と返ってきた。

 鞄をつかみ、後ろ手でドアを閉める。

 ふと、視界に誰かが入った。

「神は、僕のものだから」

 耳元で、そいつが囁いた。

「神を汚さないでね」

 振り向くと誰もいない。誰だったのだろう、あいつは。

 

 

 

 

 授業が終わって、美術部部室に向かうと、黒板に「きつねのおきゃくさま」のラストのところの絵が描いてあった。ラスト、というよりは記憶を引っ張って描いてみたという感じなのだろうか。教科書の本文らしきもの(字は教科書体)とページ数、ページのぼろぼろ具合まで完全再現である。

「おー、湧別君、早いね」

 こんにちは、と返すと、そんなに硬くなんないでよ、二人だけだしと返ってきた。

「そういえば先輩」

「何かな」

「そもそも美術部って何をするんですかね」

「さすが美術部志望、変人さんだね」

 笑いながら返してくる。

「宿題でも、課題でも、テスト勉強でも、何でもすればいいんじゃないかな。忙しいのは文化祭のときと卒業式のときだけだからね」

 そう言いながら、彼女は油粘土を取り出し、粘土板の上に薄く伸ばし始めた。

 

 

 

 彼女はあまりジャンルにとらわれない人だった。

 油絵を描いたかと思えば、次の日にはパソコンを開いて女の子を描いているし、ペットボトルで常人にはすごいということしかわからないものを作ったかと思えば、油粘土で女の子のフィギュア(何で立っているのか理解不能)を作っている。

 可愛い女の子ばかり描いていると思えば、たまに覗くと男二人が仲良くしている(と世界平和のために表現しておく)絵を描いていた。

 彼女は俺が絵を描かなくても何も言わない。

 宿題をしていようと、寝ていようと、机を積み上げようと、何も言わない。

 部室に来ることに意味があるんだよ、と彼女は言った。

 

 

 部室に行くと、黒板半分に、大事なところしか隠せないような服を着た(というよりは布を張り付けた)女の子の絵が描いてあった。相変わらずチョークとは思えない絵である。

 そして、今回はなんと黒板のもう半分に謎の絵が。

 負け。マイナス。π。念を送っているような人。菜っ葉。琴。肉じゃが。肺。飛んでいる人。マイナス。ドア。野原。機械。日の出。巣。

 なるほど、わからん。

 きっと頭文字をつなげるだとかそのまま読んで文章をつくるとかそこらへんだとは思うけどまったくわからん。

 ところで、男女間の友情についてある。

 よく男女間の友情なんてないんだよー、という結論に至るが、あれは周りの人間関係でかなり変わってくると思うのだ。

 大体よく考えてみよう。男女間の友情をぶち壊すのは友達である。

 AさんがB君のことが好きだったとしよう。でも、Aさんはそれを押し殺して、ずっと友達でいたいと思っていた。どれをぶち壊すのは誰か?

 友達のCさんである。

 友達のCさんが、Aさんの背中を押すのである。CさんがB君になぜAさんの気持ちに気付かないのかと言うのである。全てCさんが悪い。CさんがいなければAさんとB君はお友達だったのである。

 AさんがB君を友達として好きだという話をCさんにして、それを勝手に勘違いして仲を壊すのはCさんである。

 そもそも何でも好きというのが恋愛感情だと思うのがおかしい。なぜ男女間で友情が成立しないと思うんだ。

 お前らはいつも一緒に話す女子皆に恋愛感情を抱いているのか?

 違うだろう。んなわけないだろうお前。友達としての好きだよ、とか言うだろう。

 まあ、何が言いたいのかというと、俺は彼女が大好きなのである。

 俺が知っているオタクと違う。

 俺が知ってる絵描きと違う。

 鉛筆削りのコードにひっかかって転びそうになってる彼女は可愛い。

 彼女は可愛い。

 あくまで友達として。

 毎日繰り返される彼女の奇行も含め、彼女が大好きである。

 でも、さすがにそんな俺でもこればかりは理解不能であった。

 彼女に影響されて思考まで変になってきて、最近クラスメイトにいろいろ心配されている俺でも理解不能だ。

 そこで、足音が近づいてきていることに気づく。

 珍しい。こんな所に来る人なんて俺か先輩か変人かかなりの変人かよっぽどの変人ぐらいである。

 そして、どうも聞き覚えのない足音なので変人かかなりの変人かよっぽどの変人のうちのどれかのようだ。

 ついに、足音が止まり、ドアが開けられる。

「神―、この前の件だけど」

 知らない奴が入ってきた。

 いや、違う、知らない奴じゃない。声だけ聞き覚えがある。……って声だけじゃ分からねえよ。こいつの声は特徴あるし、それで覚えていただけかも知れないじゃんか。それじゃ意味がない。

 生憎うちの学校は服装で学年が分かるような仕様になっていないので学年はわからない。

 見たことないから同じ学年じゃないことはわかるけれど。

 そいつは、面倒くさそうに足を止め、面倒くさそうに視線を黒板に向け、面倒くさそうに視線をこっちに向けた。

「なんだ、君か」

 目を細める。視力が悪いからなのか、目をあけているのが面倒くさくなったのか、睨んでいるのかは分からない。愛おしいものを見るときの目もこんな感じかもしれない。

 ああ、なんというかさっきから分からないことだらけだなあ。さすが先輩(仮)。

 俺のことはどうでもよくなったのか、もう一度黒板に目を向ける。

「これ、君の絵かい? 神がこんな絵描くわけないからなあ……。ああ、隣のが神だというのは分かるぜ、惨敗、π、念、菜っ葉、琴、煮る、肺、飛ぶ、戸、野、機器、日の出、巣……残念なことに廃部の危機です、か? あいつらしいなあ……さすが神の苗字を有するだけはある」

 そう満足そうに呟くと、あいつはこっちに歩いてきた。

 どうやら目的の人はいなくても、この部屋を去る気はないようである。すれ違うよりはずっと待っていたほうが効率がいいということか、単に面倒くさいだけか。

 俺の前に来たあたりで、並べてある椅子の向きを変え、座った。

 丁度俺と向き合うような形である。

「ねえ、君さ、神のどこら辺が好きなの? 好きじゃないとこんな所来ようとか思わないだろう? え、もしかして変人? ただの変人? 嘘だ、君がそんなつまらない人間なわけないよこの部活に来た時点で君はあの頭が湧いている女子よりも変人だ! え、いじめてないよ、褒めてるんだ、かつてないぐらいね? もしかして君あんな絵を描いているけど本当はああいう子が好きなのかい? あの絵と神じゃ全然違うじゃないか、神はあんなにバカそうな見た目してないし、あんなに体に凹凸だってないしね」

 息継ぎで、一度言葉を止める。

 静かになった教室に、足音が響いた。

「ごめん湧別君待った? 待ったよね? 待とう待たない待ちます待つとき待てば待て待ったよね?」

 授業でやったのだろうか。動詞の活用(だったはず)混ぜつつ彼女は入ってきた。

 そしてす、と視線を動かす。あいつが目に入ったからか、彼女の顔が固まった。

 一瞬固まった後の行動は早かった。鞄をあいつのほうに投げつけ、そのまま美術準備室に駆け込む。出てきたとき、手にしていたのはデザインナイフだった。

 そのまま歩き、刃をあいつに向けて、視線を合わせないようにして、立ち止まる。

「どうしたんだい、そんな物騒なものは置いてよ。僕はただ美術部に後輩が入ったというから見に来ただけじゃないか、そんなに気に入らないかい? もしかして嫉妬してくれているのかな、それなら嬉しいね、でも安心していいよ、神。僕が好きなのは世界でただ一人、神だけだからね。ところで神、うちの部活に来ないかい? 日当たりも風通しも悪い人気のないこんな所にいたらせっかく綺麗な神の心が腐ってしまうよ、いや、別にうちに来てもうちの活動をしなくていい。僕はただ神がこんな所にいて君が腐っていくのを見ているのが耐えられないんだ。うちの部室として使っている教室の隣の教室があいているのは知っているだろう? ずっとそこで絵を描いていればいい。あそこの教室は風通しがいいんだ。こんな所よりも良いだろう? 君のことを悪く言う部員がいたら、僕に言ってくれ。先生に言って部活を抜けさせてあげよう。二度と君に近づかないようにするよ。安心してくれ。ほんとうにことしはうんがわるかったね、きょねんはきみいがいのぶいんはすぐにやめてくれたのにね? さっきそこのしょうねんとはなしたけどやめるきはなさそうだ。さすがこんなへんなところにちかづくへんじんなだけはあるよ。それはそうとこくばんのやつはなんだい? 『ざんねんなことにはいぶのききです』だなんて。どこがざんねんなんだい、ぼくはね、せんぱいこうはいだなんていうめんどくさいものはすてて、こんなへやもすててぼくのもとにこればいいんじゃないかといっているんだ。すなおにうけいれられないのかい? てれやさんだね、さいきんのことばじゃ『つんでれ』かい? ジンハマタエガウマクナッタネサッキモフレタケドアノアンゴウチョークダケデカイテイルダナンテシンジラレナイネサスガボクノジンダソレニクラベテコウハイクントイッタラナンダイアノエハジッサイニハアリエナイジャナイカアンナエヲカクヒトハオモテノセカイニデルベキジャナイネヒキコモリヲコジラシテシヌベキダセカイノタメニネホラミテヨアノフクラミアレハジンニケンカヲウッテイルヨウニシカミエナイネアシンパイシナクテイイヨボクハソンナジンガダイスキダシソレヲキニシテイルジンモダイスキダアイシテル。ねえ、じん。きょうのしゅくだいでわからないところがあったんだ。おしえてくれよ。じんはかんすうがとくいだったよな? とくいだったはずだ。いつもはちじゅってんだいのきみがかんすうのときだけはきゅうじゅってんだいなんだからね。神、さっきから黙ってどうしたんだい? 喋ったらどうだ」 

 彼女から、殺気が出ていた。

 いや、出ていないのかもしれないけれど、なんか目視出来そうなレベルで、彼女が怒っているのはわかった。今にも空が黒くなり、大雨が降り、雷が落ち、人々が大混乱に陥りそうな勢いである。もしこの話が学園異能バトルだったなら、俺が「先輩、落ち着いてください、暴走してしまいます! 先輩の能力が暴走したらどうなるかわかってるんですか? ここらへん全滅ですよ!」と叫んでいたであろう。

 残念なことにこの世界では学園異能バトルなど行われていないのでただ先輩の怒りに合わせるように窓から風が入ってきて、カーテンが五月蠅い程度である。

 すう、と息を吸って、彼女が、デザインナイフを床に落とす。

「良い子だ、神。女の子がそんなものを持っちゃいけないよ」

 あいつが彼女に一歩近づいた。手を肩に置く。

 彼女は代わりに、ポケットの中から鋏を取り出した。

 どうやら、さっき準備室に行ったときに鋏もポケットに入れてきたようだ。

 美術室の備品の中でも、一番先が鋭く、可愛さの欠片もない鋏だ。

 紙を切るときの持ち方ではなく、指を入れる穴に人差し指だけをを入れ、それ以外は鋏を握るように持っている。

みかみの、と彼女が呟いた。

「ん? どうしたんだい、神」

「三上の分からずや」

 平坦な声で、彼女は言った

「三上の分からずや。死ねばいいのに。私が好きだなんて悪趣味だね。死ねばいいのに。私が好きだなんて嘘つきだ。死ねばいいのに」

 彼女は一度、ドアの向こうを見る。

 そして、何を思ったのか、フッと笑った。

「……はっ、どういうことだよ神」

「黒板の絵は全部私の絵だ。あれが私だ。三上が見てるのは私じゃない」

 彼女の声が、どんどん強く、はっきりしていく。

「何を言っているんだ神。君は小さいころからずっと風景や物を描くのが好きだったけど人間は描かなかったよね」

 彼女の唇が、五文字を刻んだのが見えた。

 俺のほうを横目で見て、それから。

 彼女は、鋏を振り上げ、それを、自分の肩にある手に、刺した。

 あいつは、声を出さなかった。彼女が、鋏が刺さったままの手を、鋏を横に動かして肩からよける。

 力が抜けたのか、あいつが膝から崩れ落ちる。

 彼女はそのまま、俺と視線を合わせず、「ごめんね」と呟き、ドアの向こうへ走って行った。

 俺はあいつの近くに行き、見下ろす。

「あの絵、俺のじゃなくて先輩のなんですよ。そもそも俺、絵描きたくて入ったんじゃないですし。そんなことも分からないだなんてやっぱり最低ですね先輩。それともあれですか、分かってたけど自分の知らない先輩は先輩だって認めないつもりですか先輩。最低ですね。最低です最低です最低です。そりゃ先輩も怒りますよ、好きな絵を好きなように描いていいと言ってる割には自分の絵のこと何も分かってないんですから。自分のこと愛してるって言ってる割には先輩、先輩のこと嫌いじゃないですか。あの人あれですよ。男同士の恋愛とかいける人ですよ。大きい胸とか大好きですよあの人」

「何が言いたい?」

 俺の前では余裕を保っていたいのか、少し笑いながら言う。

「俺のほうが先輩大好きです。先輩がどんな人であろうと先輩大好きです」

 今のおれの顔はどんななんだろう。先輩を見下しているのだろうか、恨みのこもった眼をしているのだろうか、それとも、まったく違い、笑顔なのだろうか。

「彼女としてかい?」

「いや、友達としてですよ先輩何面白いこと言ってるんですか」

 そう言って、俺は先輩の手から鋏を傷口を広げながら引き抜き、適当に放り投げる。

「それじゃあ。鍵はちゃんと閉めてくださいね」

 わざと音を立ててドアを閉め、そのまま帰る。下駄箱を見てみると、先輩はもう帰ったようだった。

 

 

 

 

 朝、いつもの習慣で先輩の下駄箱を見る。機能の騒動(になったのかどうかはしらないが)があったにも関わらず、先輩はいつも通り来ているようだ。

 よかった、なんて思っていられたのも三十分ほど。

 朝の会で、美術部は廃部になる、と言い渡された。

 

 

 

 廃部になったと聞いていても、どうにも現実味がなく、いつもの癖で美術室へ向かう。

 ドアを開けても、何もなかった。

 紙粘土のフィギュアも、ペットボトルのオブジェも、黒板の落書きも何もなかった。

 ただ、先輩が窓際に立っていた。

 四月の風はまだ冷たく、ここは日当たりも最悪で、教室の中は寒い。

 ドアを開ける音で俺に気付いたのか、先輩は窓を閉めた。

 窓だけかと思えば、分厚い遮光カーテンも閉める。

 それから後ろと前のドアに鍵をかけた。

 ドアの窓を隠すカーテンも一緒に閉める。

 教室の明かりは、蛍光灯だけになった。

 その唯一の明かりも消し、部屋の中はカーテンの隙間から入る光だけになる。

「ごめんね、湧別君。危機とか危機じゃないとか関係なく、私が廃部にしちゃったね」

 まだ目が慣れていなく、先輩の顔は見えない。どんな仕草をしているのかもわからない。

 

「なんかごめんね、あの人私の幼馴染らしくって。私は知らないからきっとあの人の嘘なんだろうけどね」

 やっと慣れてきた目に、彼女の得意げな顔が飛び込んでくる。

「そんな後輩君に最後に私の秘密を見せてあげよう」

 そう言って、彼女はチョークを掴んだ。

 左下から、黒板が白くなっていく。

 チョークが持てないぐらいに小さくなると、新しいものに変える。それを二、三回繰り返し、途中から椅子も使って上のほうも埋める。

 右上にたどり着くと、チョークを丁寧に置いて、俺のほうに近づいてきた。

 それから右手をあげ、指を動かし、音が……ならなかった。

 パチンという良い音ではなく、スッ、みたいな音がする

 それでもそれがトリガーだったらしい。

 視界が一気に緑に塗り変わっていった。

 真っ暗だったはずなのに、どころの話じゃない。そもそも室内だったはずなのに、頭の上では太陽が輝き、風が吹き抜け、木々が青々と茂り、葉を鳴らしている。

「は……?」

 えへへ、と彼女が照れ笑いをする。

「これが私だよ、後輩君」

 いや、これが私だよとか言われても。

 これって何、え、何?

 この世界は実は学園異能バトル物だったとか?

 いや、ありえんありえん。

 なるほど、これはあれだ。思春期の想像力……妄想力、だ。

 んなわけない。

 先輩が、こっちに近づいてくる。無意識に下がると、何かにぶつかった。

 何かと思って後ろを見ても、何もない。そのまま下がると、ガタンと音がして、その何かに寄りかかる形になっていたと思われる俺の体も一緒に倒れた。

 こうなる前の位置関係を思い出す。

 ……そうか、机か。

 視界を変えているだけ……ということなのだろうか。

 先輩が、俺の目の前に立って、それからスカートの裾を気にしながらしゃがみ、俺の手のあたりに手をつく。

 思わず目をつぶると、フッ、と笑う声が聞こえ、風が通り過ぎ、目を開けると……ただの教室だった。

 窓があいて、風が吹き込んでいる。

 待て。待て待て。待て。……訳がわからん。

 まず先輩がいない。あんな一瞬でいなくなれるような運動神経の持ち主ではなかった。

 そして締め切っていたはずの教室が窓も開きドアも開きである。

 ……今日は帰ろう。

 なんか昨日の一件で疲れているのかもしれない。

 

 

 

 次の日、なんとなく先輩の下駄箱をのぞく。

 先輩の下駄箱は……なかった。

 先輩のクラスの下駄箱は小松、佐々木、と続いて須藤となっている。神、が見当たらない。

 どういうことだと一日中考えて、廃部になったにもかかわらず、というかそのことを思い出すこともなく、俺の足は美術室に向かう。

 美術室の前で気がついた。

 なんか違う。

 何が違うって?

 何が違うって、

「俺が知ってる美術部はこんなに騒がしくない!」

 ドアを開け放つ。

「あ、湧別君、やほー」

「だからあのカップリングは最強なんだって」

「昨日のあれさー見た? めっちゃ公式やばかったよねー」

 教室の中にざっと十人の女子。

「おかしいなあ……美術部そういや廃部のはずなのに」

「何言ってるの湧別君、廃部だなんてそんな不吉なこと言わないでよ」

「先輩も神さん一人だったのになあ」

「じんさんって誰」

 気付けば、俺の唯一のお友達。

 神美咲先輩はどこかに消えて、俺の部活もどこかに消えていた。