「だから私、彗星なの」

そう、目の前の私の姿をした何かは言った。

 

 

 

「すいせいって……すいせいって水金地火木土天海冥のセンターの……」

「いやいやいや、そっちじゃなくて自分勝手にぐるぐる回ってるほうの。キキヨの彗星だよ」

ぐるぐる、と指を回す。そしてその指をこっちに向けて。

「あと、冥王星は太陽系外縁天体だからもうそのチームのメンバーじゃないの」

チキュウ人ったら私たちのこと何も知らないのね、と怒ったように私のベットに座る。

「はあ……で、彗星さんがどのようなご用件で……?」

どうして彗星さんがこんな姿で、とか。

宇宙にいるべきじゃないのか、とか。

そもそもただの痛い人なんじゃないか、とか思ったけどそれは置いといて。

「私、あなたたちにハレー彗星って呼ばれてる彗星なんだけど。もう少しで近づくからね。仕事を果たしに」

「仕事?」

仕事、って。

「ああ、仕事だよ。なぜ、と言われても困るんだけど」

くく、とわらって。

「彗星のごとく現れた天才、を作り出すんだ」

うんうん、なるほど。…………。なるほど。

「つまり自分はそういうことができると思いこんでいる痛い人ってことでいいですか?」

「いくないいくない。全然よろしくないよ。ほら、ええと、一昨年あたりにブローセン・メトカーフ彗星が来た時あたりから有名になった、えっとあのひたすら走るよくわからない遊びで記録を連発してる、えーと、君たち基準だと高校一年生。知らない?」

ひたすら走る遊び……マラソン? 長距離? で一昨年あたりから有名になった高校一年生? いたような、いないような。

彗星さんは私の微妙そうな反応を見て無理っぽい、と悟ったようだ。

「……あれ、ブローセン・メトカーフ彗星がやったんだけどね。分かんないか……。……私はまぎれもなく彗星だ。ハレー彗星だ。私の本体は今も地球に向かって約七十六年ぶりの軌道を回っている。君は厳密な抽選の結果、見事選ばれたんだ。何か、願うことはない? 小さなことでもい。天才とまで行かなくてもいいんだ。何か、ない?」

静かに問う。真剣な目。きっと嘘ではないのだろう。

答えなければ。

でも、何を。

願い、なんてそんなにぱっと浮かぶものじゃないし。

何か、何か。

何か。

……ああ。

そういえば、

それが。

 

「私、音感とかそういうの、全然だめで」

こんなのでいいのなら。

「友達にピアノがすごく上手な子がいて。でもわたし、なんとなくすごいってことしか分からなくて。多分、私が思ってる以上にすごいはずなのに、全然わからなくて。友達なのに、せっかく、皆に秘密にしてるのに私にだけ教えてくれたのに、私、全然だめで。一度でいいから、一度でいいから」

 

「桃瀬ちゃんの隣に立ってみたいの」

 

「そうか」

私の手を握る。

「その願い、聞きいれた」

そのままぐっと私の手首を引っ張る。それにつられて倒れる私の体。彗星さんも体を倒す。

ぽふん、とベッドにダイブして。彗星さんは気付いたらいなくなっていた。

「……何、夢オチ? 夢オチってやつなの? まさかの? 夢オチ?」

いやいやまさか。

とりあえず、寝よう。

 

 

 

目が覚めたら別世界のようでした、とのちに私は語る。

事実、別世界のようだった。

音楽というものに無縁だった私の世界に、音楽がやってきたのだ。

 

こんな日がやってくるとは。

学芸会でリズムがずれていることに微塵も気づかないままリコーダーを吹き続け、本番が近付いてくると遠まわしに吹く真似でいいからね、と言われていた私が。

合唱のとき音もリズムもずれていることにやはり微塵も気づかないまま、指摘されても意味がわからないまま歌い続け、遠まわしに本番は口パクにしてねと言われていた私が。

何ということでしょう。今では音楽室から聞こえてくるリコーダーの音が、ドレミに聞こえるのです。

桃瀬ちゃんの言うことがわかります。「なんで音を聞くだけでドレミがわかるの?」ではないのです。ドの音はドと言っているように聞こえるのです。

変わったのは音感だけではないのです。調子に乗って今までできなかった音ゲーとやらに挑戦してみるとなんということでしょう。音ゲーのボタンはリズムに合わせて光っていたことが判明したのです。今までこれはどのようなタイミングで光っているのか、謎で仕方がなかったのですが、これで謎がまた一つ解けました。

……まあ、どれだけ今までの私がひどかったのか、という話なのですが。

「……っていうかこれ、いつまで効果は……」

「私が見えなくなるまで、または対象が満足するまで、だな。優先されるのは見えなくなるまで、の方だが」

「彗星さんっ?」

急に後ろから声。

振り向くと昨日と同じ姿の彗星さんがさっき私がやっていたゲームで遊んでいた。

しかもめちゃくちゃ手の動きがはやい。最初から押すボタンがわかっているかのようだ。

「……あと十数日か、数十日かそのぐらいだね。それからあとは個人差があるらしい。一度感覚をつかんで、そのまま力を発揮する奴もいれば、全く感覚がなくなるような奴もいる。目が見えるようになりたいだとか記憶力がほしいだとか、感覚系統の力を望んだやつは後者が多いけど」

手を動かしながら続ける。

「やりたいことがあるなら早めにやってしまったほうがいい。ちょっと今は形が不安定でな……壊れるかもしれんと地球の一部の人間が言っているようだ」

「え、そんな不安定な状況でこっち来たんですかっ?」

ちょうど曲が終わったようだ。こっちを見て。

「仕事だからな」

いや、多分この仕事そこまで重要じゃない。

 

 

 

やってみたいことといえば、桃瀬ちゃんとの連弾である。

桃瀬ちゃんの隣に座ってピアノを弾いてみたい。ぴったりあってやったあってなるのもいいし、ちょっと間違えてむすっとされちゃうのもいい。

今までの私じゃ、見ていることしかできなかった。指の動きがとても速いのをみてなんかすごいんだろうなあと思うことしかできなかった。

でも今は違う。

今の私には音楽を楽しむ能力が備わったようなのであった。

 

 

 

でもだからと言ってピアノが弾けるようになったわけではないのである。

家にピアノはない。

習う余裕もない。

ではどうするか。

電器屋さんの電子ピアノコーナーである。

楽譜を読む力自体はあった。あとは弾けるようになるだけである。

……なんてことは必要なかった。

頭の中に音楽があふれてくる。どのキーを押せと言ってくる。

その通りに押したらいい音が出る。

自分が自分でないようだ。

不器用を絵にかいたような自分なのに指が滑らかに動く。左手が跳ぶ。

ピアノってこんなに楽しい楽器だったんだ。

一つの楽器でメロディーもベースも出せてしまう。

こんな楽器。そりゃ楽しいはずだ。

 

 

 

そして私はついに桃瀬ちゃんに話しかける。

「桃瀬ちゃん、あのね」

「何」

「私、急によくわからない能力に目覚めてピアノが弾けるようになったんだけど」

「……大丈夫……? 頭とか打った……?」

「違うよ桃瀬ちゃんっ! そうじゃなくてちゃんと弾けるようになったんだよっ」

桃瀬ちゃんの隣、音の高いあたりをちょっと拝借してゴリウォークのケークウォークの出だしを弾く。ずっと前に桃瀬ちゃんが弾いてた曲。

「……本当、みたいね」

「そうなんだよっ! でねでね桃瀬ちゃんっ、私お願いがあってっ!」

「なに」

「私っ、桃瀬ちゃんと連弾してみたいのっ」

一瞬、桃瀬ちゃんの口角がく、と上がった。

すぐにもとの表情になると、無言でイスの座る位置をずらし、高音側をあけてくれる。

「連弾って……曲、わかるの」

「大丈夫、桃瀬ちゃんが弾いてた曲なら。多分」

前、誰かと連弾していたのを聞いたことがある。その曲なら。

「……じゃあ、この前私がハクツと弾いたやつ」

これ、と出だしのメロディーを弾く。

そこからつながって、頭の中でメロディーが流れる。上と下の音に分かれて、どの音を右手で弾いて、どの音を左手で弾くのか、わかる。

「……いくよ」

いち、に、さん、しの声に続けて弾き始める。

自分の隣で、自分とは違う音がなっている。

でも違う曲じゃない。同じ曲で、合わさって、一つになる。

ああ、これがずっと続いたら。

 

 

 

「無理しないで、いいのに」

弾き終わると、桃瀬ちゃんが呟いた。

「桃瀬ちゃん……?」

「ついこないだまで音楽全然わからなかったのに、こんなにできるなんて、おかしいでしょ」

「はは、わかってた……?」

「わかるわよ……何年の付き合いだと思ってるの」

ふ、と口元をゆるめて。

「でも、嬉しかったわよ。こんなこと、一生ないと思ってたから。これからは、無茶しないで、隣にいてくれるだけでいいのに」

「でもこんな機会ないし。私のピアノ、聞いていって」

そっと指を置いて、キーを叩く。

いつも聞いていた桃瀬ちゃんの音楽は、こんなに、すごかったのか。

 

そしてドレミは私の世界から姿を消した。

 

新聞で、ハレー彗星の接近が騒がれつつあるときのことだった。