加倉井さんにそう聞くと、彼女は決まって不思議そうに首を少し傾けるのだ。

 

 

加倉井さん。フルネームは加倉井咲乃である。

一応小学校のころから一緒だけど接点は全くなく、同じクラスになったのは今年が初めてだった。

あほみたいに、がつくほど真面目な子、というのが小学校時代の印象である。

それはもうあほみたいにである。

加倉井さんが廊下を走ってる姿なんて見たことないし走っている姿どころか右側以外を歩いているのを見たことないし悪口言ってるのも暴言はいてるのも見たことないし。もちろん忘れ物なんてしないし。加倉井さんと同じクラスだったことがある友達が言っていたのだから本当のことなのだろう。「本当に『あほみたいに』真面目だった」と。

それはそれはもう融通の利かない子だったそうだ。小学校六年生にもなって先生の言う事は絶対、を実行していたようである。

それが原因でなんか人間関係をこじらせただかなんだか。

中学生になった加倉井さんはさすがにそれで学習したのか、いくらか柔らかい雰囲気になっていた。

……まあ、真面目っぷりは健在しているようだけど。

それでも小学校のころよりはましになっていたのだと思う。教室の隅っこで、最低限のルールだけ守るような子なのだから。

 

なぜその時私は加倉井さんに話しかけたのかはよく覚えていない。

なんだっけ、提出物関係から解き放たれてからカバンをとりに教室に帰ったら加倉井さんがいたんだっけ。

学校に残って勉強してから帰る人間なんて実在したんだなあ、と。思ったんだ。

うわあ本当にくそまじめだなあ、だなんて思って。

そこで初めて加倉井さんに尋ねたのだ。「加倉井さんは人生楽しいの」、と。

加倉井さんはこっちに目を向けて、不思議そうに首を少し傾けただけだった。

 

そのあとまたしばらく話す機会はなかったのだけど、またしばらくしたときに加倉井さんと二人になる機会があった。

あれはなんだっけ、美術の制作物が終わらなくて居残りをさせられてたんだっけ。

加倉井さんは相変わらず教室にいた。今回は勉強ではなく作業をしていた。

何をしているの、と問うとアンケートの集計、と返ってきた。

手伝おうか、と言うと気にしないで、と返ってくる。

しかし私が入った瞬間、というか教室に入ってきた人間が私だと認識した瞬間、加倉井さんの口角がちょっと上がったのを見逃すような私ではなかった。

加倉井さんの席の近くに近づき、机の向きを変えて「どんな感じで作業してるの」ときくと、加倉井さんはちゃんと教えてくれた。なんだ、ちゃんと教えてくれるじゃないか。

そして再び尋ねる。

加倉井さんは相変わらず不思議そうに首を少し傾けるだけだった。

 

加倉井さんから話しかけられたのはそれから一カ月ぐらいしたころだった。

加倉井さんって自分から話しかけたりとかできるのか、とか思ったけどよく考えてみれば授業中に先生のミスとかをちゃんと指摘するような子だった。

放課後の二人しかいない教室で加倉井さんはもう好きな人にする告白かよ、ってぐらい顔を真っ赤にして、「私を街に連れていってください」と言ったのだ。

……?

 

六月十八日十時、駅前の謎のオブジェの前で。

約束の十五分前に着くと、ちょうど加倉井さんも来たところだった。

加倉井さんは一瞬固まると私の頭からつま先まで視線を移す。そしてもう一度顔に戻して「もしかして数馬田さん?」と言った。

もしかしてって。

いやいや約束しててもしかしてもなにも無いって。

わたしね、と加倉井さん。待ち合わせして相手が来たの、初めてなの、と続ける。

初めてなのって加倉井さん。

私が携帯電話とか持ってないから連絡しにくかったとかそういうのもあるのかもしれないけど。中止になったとかそういう情報全然ないまんま一時間待ってみたりとかそんなのばっかりで、来てくれたのは数馬田さんが初めて。

そういって加倉井さんがふわりと笑う。

加倉井さんってこんな表情もできたのか。

いつもはむすっとしてたり何考えてるのか分からなかったり、そんなのばっかりなのに。

今日はどんな用なの、と加倉井さんにきく。

加倉井さんはこの前気づいたんだけど、ときり出した。

どうやらこの町の決まりでは中学校に上がると映画館やゲームセンターに行くのに保護者同伴が必須ではなくなるらしい。そんな決まりの存在も知らないで勝手に友達同士でゲーセンとかに行っていた私には初耳だった。そのまま伝えると毎年四月に配られるプリントに書いているじゃない、と信じられないって顔をされた。

まあつまり、連れてってほしい、ということらしかった。

「……まず映画館行っとこうか」

どのぐらい時間かかるかわからないし。

 

 

 

不審者の巣窟、というのはウソだったのですね、と加倉井さんが呟いた。

何事かと聞き返すと、どうやら加倉井家では映画館は不審者の巣窟ということになっていたらしかった。きっと厳しい家庭なのだろう。ここは町で一番大きな施設と繋がっているから、近付く機会が多かったのかもしれない。その状況で、興味を持たせないためにきっとそんな表現をしていたのだろう。

ちなみに、ここに入っていく人たちはどういう認識だったの、と聞くと不審者を不審者と気づいてない憐れな人間たちだと説明されていたとのこと。

そんなことなくて良かったです、と加倉井さんは笑った。

 

映画のラインナップが加倉井さんには刺激が強すぎるようなものばかりなので映画館は雰囲気を楽しむだけにとどめておいた。運よく国民的アニメの映画版とか、人気小説のドラマ版とかやっていたらよかったんだけど。少女マンガの映画版とか大人の人が見るようなのとか、やたらと体のラインを強調した絵柄のアニメ映画ぐらいしかやっていなかった。どれも加倉井さんに見せたらやばい気しかしない。

「……気を取り直してゲーセン行こう」

 

この街にあるゲーセンは大型ショッピングモールにひっついているやつぐらいしかない。

まあそれでも加倉井さんには十分だろうと連れて行く。

最初の一言は電気代がすごいことになってそう、だった。

多分それは一番考えちゃいけないことなんじゃないかなあ。

加倉井さんに何かやりたいものはあるのかときくと、よくわからないから自分でもできそうなもの、と返ってくる。

加倉井さんでもできそうなものって。ものって……?

UFOキャッチャーは失敗したらお金の無駄だし。レースゲームとかそんなのはまともにできている姿が想像できない。コインゲームとかもあるけどあれ使い切るのめんどくさいし。

音ゲーなら出来るんじゃないかな、と筺体が並んでいるあたりに連れていく。簡単そうなやつを選んで百円玉を入れて、曲選択画面まで進める。この筺体なら普通のアイドルの曲からアニメソング、クラシック、オリジナル曲まで色々収録されているから加倉井さんでも知っている曲ぐらいあるだろう、多分。

右と左で画面を動かして、やってみたい曲のボタンを押して、あとは光るボタンを音楽に合わせて押すだけだから、と筺体の前を譲る。加倉井さんは若干操作に戸惑いつつも天国と地獄を選ぶ。

こくり、と加倉井さんの喉が動く。

光った瞬間じゃなくて、あくまで音楽に合わせていいタイミングで押すんだからね、と横から一言添える。

わかってます、と返ってきたあたりで音楽が始まる。一つ目のボタンは押し逃していた。

そのあとも手をうようよさせつつも後半になったらちょうどいいタイミングでボタンを押せるようになっていた。

百円で遊べる音楽三曲をやり終わると、ちょっと疲れましたけど楽しかったです、と加倉井さん。それはそれはよかった。

 

その後、適当に、連絡通路でつながっている専門店が集まった建物の中を適当にぶらついて、夕方に解散。

中学生というものはこんなに自由だったのですね、楽しかったですと加倉井さん。

「ところで加倉井さんは人生楽しいの」、と再び聞くと、やはり加倉井さんは不思議そうな顔をして首を少し傾けるのだった。

 

 

 

その後、二、三回約束を守っただけで加倉井さんに懐かれてしまった。

あれ、加倉井さんってこんなにちょろい人だったっけ?

 

 

 

『今の感情:苛立ち

 何故? :クラスの人のスカートが短い。先生の指導が入ってもごまかす。短いまま。解決しない。

 解決方法:・無い

      ・自分が消える』

 

 

 

風でめくれたノートに踊るそんな文字。そんなタイミングで教室に入ってくる加倉井さん。

加倉井さんは、人生楽しいの? ノートを見る私に驚いた加倉井さんに問う。

「楽しく、ないですよ」

加倉井さん?

「楽しくなんか、ないですよ!」

 

 

 

なんで気づかなかったんだろう。

放課後に机に向かっているからと言って勉強しているとは限らないじゃないか。

いくら加倉井さんでもあんな勢いで、テスト前でもないのに、勉強するだなんておかしいと思えればよかったのに。

加倉井さんはいい子だから、皆に迷惑をかけないストレス発散法が、ノートに自分の気持ちを整理して書く、だなんて保健の教科書に載っていそうなことしかわからなかったの だろう。

整理して、って整理できないからストレスなのにそれを整理してもストレスになるだけじゃないか。それならまだ書き殴ったほうが平和だったかもしれないのに。

表札の加倉井の字を確認。加倉井なんて名字、加倉井さん以外に聞いたことないし多分ここであっているだろう。

インターホンを連打し、さらに加倉井さん、と叫ぶ。……も、反応は無い。

そりゃそうか、そんな素直に出てくれるわけがない。

もしかして、と思ってドアを開けようとするとすんなりと開いた。

……ちゃんと戸締りしない加倉井さんがいけないんだよ、きっと。

そう自分に言い聞かせて、そのまま家の中に入る。靴から判断するに、加倉井さん以外に人はいないようだ。好都合。

大体の子供部屋は二階だよなあ、と階段を上る。二階には四部屋。うち一部屋だけ扉が閉められている。

我ながら変態っぽい、と思いつつドアを開けると、ベットの上に加倉井さんがいた。

 

 

 

「ストーカーか何かなんですか、数馬田さんは。勝手に家に上がってきて。私なんて、どうでもいいでしょうに」

「だってこうでもしないと加倉井さんと話できないでしょう?」

「……何を話す、んですか」

数秒間私を睨みつけると、加倉井さんはとりあえずそこらへんに座ってください、と続けた。

 

 

 

「加倉井さんは、いい子過ぎると思うんだ」

「だからなんですか」

「教科書とか先生の言ってることは正しいって、信じ込んでる。実行してる」

「だってそうじゃないですか」

「実際そうだよ。でも世の中にはそれが実行できない人の方が多い。多いなんてもんじゃない。多数派。加倉井さんみたいな人なんて、一割もいないだろうね。だから疲れるでしょう? 加倉井さんのペースで動いてくれる人が全然いなくて疲れるでしょう?」

そ、れはと加倉井さん。

「でも、そうだって、小学校六年間で思い知ったはずなのに加倉井さんは今でも苦労してる。確かに、一回完璧になったらルールから外れるなんて気持ち悪いよね、疲れるよね。でも加倉井さん、それだけじゃないでしょう? 加倉井さんはきっと、今でも」

「今でも、なんなんですか」

「ちょっとだけ期待しているでしょう?」

く、と視線をそらす加倉井さん。

「期待、って」

「約束、守ってもらえたことないのにちゃんと行ってみたりとか」

「そりゃ待ち合わせしたら一応行くでしょう」

「そもそも期待してなきゃ、クラスメイトの行動にいらついたりしないし」

「そのぐらい、誰でも」

「だって世の中に絶望していればそんなこと考えもしないでしょう?」

「は」

「加倉井さんはいい子過ぎるんだよ。こんなに裏切られてもずっと信じて、信じて、信じ続けて。期待し続けて。だからいろんなことが許せないんだよ。人生、楽しくないんだよ」

「じゃあ、」

加倉井さんがばん、と机を叩く。さすがの加倉井さんでも感情的になるか。

「数馬田さんは人生、楽しいの?」

「楽しいよ?」

信じられない、という顔。

「どういう、ことですか、数馬田さんも他の人と同じなんですか」

「違うよ違うよ全然違うよ。あんな何も考えてない人たちと一緒にしないでよ。私はね、もう、皆のこと信じてないからめっちゃ楽しい。ちょっと約束守ってもらえただけでやっべえレアじゃん今年の運使い切ったんじゃね? ってなれるよ。すっげ楽しい。めっちゃ充実してるよ」

ずり、と私から少し離れる加倉井さん。ああひかれてるなあ。

「私も、そうなれってんですか」

「いやいやそこまで言ってないよ」

さすがに加倉井さんにそんなこと言えない。ピュアの塊な加倉井さんにそこまでさせる気はない。

「もうちょっと肩の力抜いていいんじゃない、って言いたかった」

「肩?」

「世の中みんな加倉井さんみたいな人ばっかりじゃないんだから。廊下を急に走りたくなる時だってあるし、給食がどうしても食べきれない人もいる。どうしても宿題を覚えておけない人もいる。約束を約束と思わない人もいる。そんな人を見て勝手にいらつくなんて疲れるじゃん。意味ないじゃん。ちょっと肩の力を抜いてそんな人もいるよね、って考えればいいし、究極は」

「究極?」

「あれは自分よりはるかに下等な人間じゃない何かだから何してようが関係ない、って思いこむ手もあるし」

「それは、」

さすがにひくよ数馬田さん。

と柔らかくほほ笑む加倉井さん。

「あんな人たちのために頭使う暇があったら、加倉井さんは別のことに頭使おうよ。加倉井さんいい子なんだから。他の人にできないことが出来るんだから。そういうふうに考えられるようになるまで辛いかもしれないけど、そんなつまんないことで加倉井さんみたいな人を失うなんていやだよ。なんであんなに大量の脳無のせいで加倉井さんがいなくならなきゃいけないのか、全然意味分かんない」

加倉井さんの手を握って。

「世の中に、いろんな人がいるんだから。加倉井さんが幻滅しない行動をする人だって、きっといっぱいいるよ。加倉井さんを幸せにしてくれる人だって、いるよ。中学校で幻滅してちゃだめだよ加倉井さん。再来年から高校だよ。世界が広がるんだよ。中学校だなんて蚤だよ。山椒だよ」

「小粒でぴりりと辛い?」

「……かもしれないけど、今みたいなたった小学校二つ分の世界であきらめてちゃだめだよ加倉井さん」

ぴく、とするとしばらく下を向いて黙って。

「……きっと、今は試練なのね」

ぽつりと漏らす加倉井さん。

「教科書も大事だけど、そうじゃなくて、世界になじむためには許さなきゃいけないこともあるし、教科書に書いてなくても守らなきゃいけないこともある。それを探さなきゃいけないんだわ」

多分、そういうことだよ、きっと。